長浜市と小谷城

さて、今回は彦根市のお隣、滋賀県長浜市についてです。
長浜市は、人口121,818人(平成27年1月1日現在)、面積539.48平方キロメートル。天正元年(1573)に羽柴秀吉が浅井長政攻めの功で織田信長から浅井氏の領地を拝領した際に、当時の”今浜”を“長浜”と改め長浜城を築きました。そして小谷城下などの商人たちを集めて楽市城下町を作ったのが、現在の長浜の基礎となっています。

滋賀県の東北部に位置し、北は福井県、東は岐阜県に接しており、中央には琵琶湖に注ぐ姉川(織田信長が”湖北の雄”浅井長政と激突した、世にいう姉川の合戦があったところ)や高時川、余呉川等により形成され、豊かな湖北平野と水鳥が集う湖岸風景が広がる県内でも優れた自然景観を有した土地です。 また戦国時代を偲ばせる長浜城や小谷城跡、賤ヶ岳、姉川古戦場など日本の運命を左右するような争奪の地となった、大いなる位置を占めていた歴史的な場所です。 他に、竹生島の宝厳寺、渡岸寺の国宝十一面観音や数多くの観音が祀られる観音の里等すぐれた建造物遺産を有しています。

長浜城と言えば「豊臣秀吉」ですが、その前に長浜には小谷城という自然の要害に囲まれた屈指の山城が存在しました。 戦国時代には東西を結ぶ中山道、東海道、北陸との交通路が縦断していた近江は京の都へ行き来するための地理的な宿命を背負った要衝とされてきました。その中、長浜を本拠として北近江を支配していたのが「浅井長政」です。戦乱の時代、織田信長は京へ上がるために近江の土地を同盟国としておきたいと考え、さらに田楽狭間で今川義元を 討ち取った信長の当面の敵は、義父道三を殺した美濃の斎藤義竜であった為、その背後を脅かす意味でも浅井と手を組む必要がありました。

一方、長政は近江南半国を支配する六角定頼氏とライバル関係にあり一時期は母親が人質に取られ、自身は名前を賢政と名乗り六角氏の重鎮平井氏から妻を迎えるなど終始圧倒される立場にあり、 さらに六角氏が斎藤義竜と手を結んでいるのに対抗するには織田信長と接近することは大いに意味があったのです。 そして長政は野良田合戦で六角定頼軍を打ち破った後、六角との絶縁を通告して妻と離別、永禄四年(1561年)四月、小谷城主「浅井長政」と「織田信長」の妹「市姫」との婚姻が結ばれ 俗にいう「お市の方」を正室に迎えました。その際に、それまで六角承禎入道義賢の”賢”の字を冠して名乗っていた賢政を信長の”長”をとり長政と改名したとされます。

その後、織田と浅井の親交は約九年間続くことになり、長政とお市の方は仲睦まじく、二男三女をもうけています。このあたり近江の地が穏やかだった時期なのかもしれません。 織田、浅井両家の思惑による政略結婚でしたが、長女 茶々、次女 初、三女 江と後の歴史に名を残す三姉妹の誕生です。

おまけ。
出産やお誕生日のお祝いに「オーガニックコットンのバスタオル」が喜ばれます。

佐和山城と石田三成

前回は国宝彦根城を紹介しましたが、少し歴史を遡って今回は「佐和山城と石田三成」について調べてみました。

そもそも滋賀(近江)の地は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と近世史に大きな役割を演じた愛知県出身の”三人の英雄”によって戦乱に明け暮れた被災地といっても過言ではありません。永禄十一年(1568年)信長が足利義昭を奉じて上洛すべく近江の地に踏み込んでから、天正十一年(1583年)秀吉が柴田勝家を破るまでの十五年間は近江の地が戦乱に明け暮れていました。

大河ドラマなどでは描かれていませんが、近江の民衆が度重なる戦火に家を焼かれ、農作物を略奪され、肉親を失うなど、歴史の裏返しとして民衆の中には決して良い印象ばかりではなく、やりきれない気持ちも存在しているのです。

織田信長が”湖北の雄”浅井長政と激突した、世にいう姉川の合戦がきっかけで当時の木下藤吉郎(豊臣秀吉)が横山城にとどまった際、東のふもと旧大原村にある観音寺で寺小姓をしていた少年「佐吉」が、ぬるいお茶から次第に熱いお茶に代えていった、いわゆる”三椀の才”を秀吉に認められて立身出世したのが後の「石田三成」であると伝えられています。

石田三成は藤原系で京極家に仕えた隠岐守正継の二男として生まれ、長浜市石田町に今も残る屋敷跡の広さから相当な旧家の子であったと考えられています。三成はその才幹を秀吉に認められ順調に出世して従五位下治部少輔に任ぜられ五奉行の一人になり、二十三万石の佐和山城主として湖北三郡の領主となったのです。

その後「関ヶ原合戦」を経て破れた石田三成は合戦から2週間後、京の都を引き回された後、六条河原で処刑されたのです。享年40歳。

ドラマでは様々な悪行がキャラクターとして描かれていますが、彼が残した言葉には、また違った三成像が浮かんでくるのではないでしょうか。

「奉公人は主君より授かる物を遣いきって残すべからず。残すは盗なり。遣い過ぎて借銭するは愚人なり」

石田三成公の生誕地である滋賀県長浜市石田町では、毎年11月第1日曜日に「石田三成祭」を開催しているそうです。決して、悪役一辺倒の人物でないことは個人としてお伝えしておきたいと思い書き記しておきました。

 

滋賀県彦根市のお話

さて前回の続き、滋賀県彦根市のお話です。現在は人口112,761人(2015年2月6日現在・彦根市ホームページより)で草津市の128,900 人(2015年1月31日現在)に次いで三番目の中核都市になります。もちろん人口だけが全てではありません。彦根には国内近世の城で天守が残っている12城の中の一つ、名城「彦根城」があり、天守は国宝(松本、犬山、彦根、姫路の4城)に指定されています。

戦国時代には絶えず戦場となっていましたが、豊臣の時代に石田三成が佐和山城主となってから町は次第に繁栄し、その後、関ヶ原の戦功で井伊直政が彦根の地に封ぜられています。その子、井伊直孝が彦根城の築城を行い始めてから城下町として発展、産業、政治、文化を中心に約300年間栄え、江戸時代には彦根藩35万石の城下町として発展を続けてきました。

現在の彦根市で有名どころでは「鳥人間コンテスト」があります。場所は琵琶湖国定公園の指定を受けている「松原水泳場」で”さざ波立つ 千々の松原”の名で彦根八景の一つに数えられるほど美しい湖畔の名勝とされる水泳場を舞台に開催され、今や全国規模の大会になっています。

そして「国宝・彦根城築城400年祭」のイメージキャラクターとして登場!今や超がつくほどの人気キャラも存在する「ゆるキャラ」の火付け役とされる「ひこにゃん」も彦根市の出身なのです。その「ひこにゃん」、 「国宝・彦根城築城400年祭」のキャラクターの愛称公募で、名前が「ひこにゃん」に決定した2006年4月3日が誕生日とされているそうです。
ちなみにLINの創業も2009年なんですけど。。。

近江の国-滋賀- 

さて2回目の投稿になります。 今回は、わが故郷・近江の国(滋賀県)について書き綴ってみたいと思います。

滋賀県は東西の島しょ部などを含めると、ほぼ日本の中央付近にあり、北は福井県、東は岐阜県、南東は三重県、西は京都府と接していて太平洋や日本海などの海岸線が無い内陸地です。そして滋賀県の中央部には全体面積(約4,017平方キロメートル)の約6分の1を占める日本で一番大きな湖「びわ湖」があります。そのびわ湖ですが、現在とほぼ同じ位置に湖ができたのは約40万年前と考えられており、縄文時代から人々は生活を営んできたそうです。

琵琶湖の水面標高は琵琶湖基準水位(B.S.L)±0mが大阪湾最低潮位(O.P.B)に対して+85.614mで、ほぼ大阪城天守閣の高さと同じになり、海抜では東京湾中等潮位(T.P)+84.371mになりますから、滋賀県民の多くは東京や大阪の人々に対して1気圧少ない環境で生活をしていることになるのではないでしょうか。

その事が関係しているのかは分かりませんが、滋賀県の15歳未満の総人口に占める割合(年少人口割合)は14.8%で沖縄に次いで全国2位、反対に65歳以上の総人口に占める割合(老年人口割合)は22.5%で全国43位、そして平均年齢は43.1歳で年齢の若い順で1位沖縄県、2位の愛知県に次いで全国3位となり、さらに!出生率は(人口千人当たり)は9.3で何と全国2位なのです。

と、ここまで書くと肝心である”平均寿命は低いやろ”と思う方も多いのではないでしょうか。 ところがです、男性の平均寿命は80.58歳で1位の長野県に次いで全国2位、女性の平均寿命は86.69歳で全国12位と立派な結果が出ているのです。 如何でしょう、滋賀県て単なる田舎ではなく、相当な田舎であることがお分かりになりますね。

そんな訳で、常に”ほのぼの”としている滋賀県ですが実は経済面でも頑張っているんです。「繊維工業品」の部では「その他の化学繊維」、「麻織物」、「プレスフェルト生地(ニードルを含む)」、「不織布(乾式)」 、「他に分類されない繊維粗製品」など出荷額が全国1位の製造品が数多くあります。 他にも、かるた、すごろく、トランプ、花札、囲碁、将棋、チェス、麻雀ぱい、ゲーム盤等の製品も出荷額が全国1位になっていて、いわゆる第2次産業が栄えているようです。

農産物でも肉用牛の飼養農家1戸当たり頭数は170.3頭で全国2位、この中には有名な「近江牛」も含まれているでしょう。 そして、びわ湖や四方を囲む高い山々など豊かな自然に恵まれた近江の国(滋賀県)は米づくりに最適の環境から、優れた品質と生産量の多さからコメ作りの産地として高い評価を得ており、古くは江州米(ごうしゅうまい)の産地として知られています。近年では、土づくりを基本にして、有機入り肥料であってもその中に含まれる化学肥料成分を厳しくカウントするなど、オーガニックな取り組みに近づく努力をされています。

その農家の人々は古くから副業として、養蚕・製糸業が発達した地域と言われ、明治維新後には富岡製糸場(群馬県富岡市)に彦根から全国最多の子女が派遣されています。明治11年、富岡製糸場から帰郷した彼女らの技術を生かし、彦根の地に県営製糸場が設立されることになりました。県下初の模範工場として設立された彦根製糸場では、滋賀の繊維産業の工業化に大きな役割を果たしたと言われます。その後40年の歳月を経た大正6年8月、同じ彦根の地に近江絹綿株式会社が設立されました。創業者である夏川熊次郎は、彦根製糸場で働く父・英三を手伝っていた経歴の持ち主で、同社は大正8年に近江絹糸紡績株式会社と改め、後に彦根最大の大企業(オーミケンシ)へと代わっていきます。

続きは次回へ

余談 : まだまだ冷えますね。お風呂に入って身体が温まるとホッコリします。最近は泡の出る入浴剤「バブ」がお気に入りでお湯につかるのが毎日の楽しみでもあります。そして湯上りに使う「バスタオル」。絹のような肌触りで吸水もよくとっても軽い!これは是非お勧めですよ。

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オーガニックな近江ライフ

さて、久しぶりに文章を綴るようになって少々手間取っています。以前は(開店当初)Eストアさんの標準装備である店長日記なるものを使用し、夜分にパソコンをカチャカチャとやりながら「どうぜ誰も読んでないし」と適当に楽しんでいました。2006年の事なので既に9年前、一昔前と呼んでいいでしょうが、当時もブログ全盛時でさまざまな方がテーマを持ち、楽しい話題が豊富でした。でも今はさらに掘り下げて、かなり専門的な内容で綴っておられる方が多く、自分の中では少々敷居が高い気もしてなかなか気乗りがしなかった訳です。なのに何故今さらブログを書く気になったかというと、単なる「興味本位」に過ぎません。 なので、内容はいたって軽めで出来るだけユルく、出来るだけ続けられるようにしたいと考えています。 とりわけテーマについてはハッキリした目的もなかったので、一応、我がふるさとの「近江の国」を自分なりに調べてみて綴っていこうかなと思うのですが、やはりここは商売も絡めて書いておかないとタダ働きになってしまうので適当に取り込んでいくつもりです。 たぶん人目に触れず、誰にも読まれないと思うのですが一応ここに開始宣言をしておきます。

「本日よりブログ開始しますので、どうぞよろしくお願い申し上げます。」

そもそもですが、「LIN」がオーガニックコットンに携わることになったのは当初からの計画ではなく、一番最初はインターネットでアロハシャツを販売しようと考えていたのです。 そしてメーカーさんに連絡をとり条件などお聞きして自分なりにシミュレーションを行ったのですが、これからずっと携わる商品なのだからもう少し考えてみたら?と考え直し、次に浮かんだのが綿100%の無地Tシャツの販売でした。そして同じ扱うなら日本で売ってない物を!って、以前ハワイで購入したTシャツがすごく着心地がよかったので早速メーカーさんに連絡をして「日本で販売させてほしい」とお願いをしたのですが、あっさり断られて断念。次に考えたのが「シルクのパジャマ」。知り合いの中国人にお願いして工場直売で仕入れる話をしてみたらホイホイと話は進んだのはよかったけれど肝心の条件面が合わずに断念。 「いよいよ万事休すか」と思った矢先に「オーガニックコットン」について書かれている雑誌を発見!

もうこれしかない!

そう思い、ジェトロから紹介をしてもらった「トルコ」のベビー服メーカーと交渉開始。 ところが条件面で折り合いがつかずこれまた断念。 次に紹介をしてもらったアメリカの下着メーカーと交渉を行い「サンプル」を送ってもらって現物を確認し、ようやく決断!で、これが現在もお取引をさせて頂いているbgreenさんなのです。 最初の間はお国柄の違いというのか文化の違いというのか少々驚くこともありましたが、段々と月日を重ねていくあいだにちょっとばかり友情も芽生えてきたのかなぁと感じたりもしています。

おっと、初日からあまり飛ばすと後が大変、、、。今日はこんな感じで終わっておきます。

ちなみにbgreenの綿100%Tシャツはこんな感じです。

http://www.live-in-nature.jp/SHOP/WB226.html