長浜市と豊臣秀吉

長浜には江戸時代前期に廃城になった長浜城があったのですが、その城跡に明治42年豊臣秀吉ゆかりの公園として「豊公園(ほうこうえん)」が造られました。その公園には現在、長浜市民の寄付によって三重の天守閣に白壁が映える城が復元されており、市立長浜城歴史博物館として運営をされています。

先の通り、戦国時代に秀吉が建てた長浜城は江戸時代に入って取り壊され、その当時の名残をとどめるものは殆ど残っていませんが、唯一「太閤井戸」と呼ばれる当時の面影を残しているのものがあります。ただこの井戸は現在「琵琶湖」の中にあるそうで、埋め立てや公園整備などの際にも守られて雪見灯篭や松の木等とともに昔の湖辺そのままに残された「太閤井址」の石柱が建っているとの事です。

さてその秀吉が納めていた頃の長浜はそれまで「今浜」と呼ばれ小さな漁村の一つにすぎなかったのですが、新しい城を築いて城下町を整備して大きく発展したと言われています。また近世の初めには、長浜城の内堀を利用してつくられた港が彦根松原、米原両港とともに「彦根の三湊」として彦根藩に保護されるようになると、湖北や大津などとの交易が盛んになり、縮緬(ちりめん)や蚊帳(かや)などを中心に出荷され湖上船運の要地としてたいへんな賑わいをみせていたそうです。そして明治初期には東海道線の連絡港として重要性を高め、蒸気船が行き来していました。今も長浜市には舟板塀通りと称されるあたりに白壁の土蔵や舟板塀や常夜燈、舟入り場の石段などが残っているところもあり当時の繁栄を偲ぶことができるようです。

話は戻り、天正元年8月10日信長の小谷城への最後の攻撃によって同年8月29日浅井家二代目「浅井久政」は自刃(享年49歳)、同年9月1日には三代目の「浅井長政」も小谷城内赤尾清綱邸で切腹(享年29歳)、小谷城は落城し、大永3年(1523)浅井亮政が京極家の継嗣問題の混乱に乗じて国人一揆を起こしてから三代五十一年目に浅井家はついに潰えたのです。 しかしその後、浅井家の血筋を受け継いだ三人の娘たちはそれぞれ、長女「お茶々」は豊臣秀吉の側室「淀どの」として権勢をふるい、次女「おはつ」は京極高次の正室「常高院」となり、三女「おとく」(江)は徳川秀忠の正室となって秀頼の妻「千姫」、三代将軍「家光」や後水尾天皇のもとへ輿入れした「和子姫」を生むなど、近江で生まれた人達が日本の歴史に対して大いに影響を与えているのです。
やがて近江の国は、織田信長の全盛期となり”安土時代”へと移って行きます。

撚糸を交互に織り込んだ縮緬(ちりめん)とは違いますが、昔ながらの手紡ぎのような風合い「ガラボウソックス」です。

オーガニックの認証

さて前回、江戸時代に綿を使った糸や布の生産が近江で盛んに行われたと書きましたが、その当時に日本で栽培された木綿は物理的に全て無農薬であり、それはまさにオーガニックコットンですということでした。

江戸時代には化学肥料と農薬は存在せず、害虫駆除、雑草の管理などは全て人力と自然の力によるものであり、「畑から原綿まで」の農業分野に於けるオーガニックな農法は疑いようがありません。現代に於けるオーガニック・ファーミング認証はこの部分ですね。次に糸を紡いで木綿の着物などを造りだす「紡績から製品」に至るまでの製造加工分野に於いても、現代のような脱脂、漂白、染色など科学的な処理、あるいは合成繊維も存在しないので、いわゆるテキスタイル(織物・染物・編物・布地など)の製造加工分野も極めて純粋に自然素材として加工をされています。こちらは現在に於けるテキスタイル認証の部分になります。オーガニック・ファーミング認証と、テキスタイル認証の二つについては以上が概略になります。

さてその中で現在のオーガニックコットンについて認証を行うのはどこなのか?ですが、一つ目の農業分野に対するオーガニック・ファーミング認証の基になる基準はそれぞれの国や地域が定めた オーガニック農産物等の生産方法についての基準が使われます。そしてその 認証作業を担当する認証機関はそれぞれの国が資格認定をし、認証実施の資格を与えます。次のテキスタイル分野のオーガニック認証ですが、こちらには現在二つの考え方があり、一つはオーガニックコットンを一定量使用すればそれで良く含有率や加工方法に制限が少ないので、表現が豊かにできるメリットもある認証で例えばオーガニックコットン混紡率が全体の5%程度でも、さらに製造加工方法は従来通りの方法で構いませんというものです。代表的な認証機関として「テキスタイル・エクスチェンジ」や「オーガニック・エクスチェンジ」があります。日本の有名デパートでも時々、カラフルな可愛いデザインの商品に「オーガニックコットン」と表示してちょっとだけお値段高めで売っているのを見かけます。多分ですがこの商品が該当品だと思います。

そしてもう一つの認証基準ですが、出来る限り環境負荷の少ない製造加工を行い、オーガニックコットンの含有率も一定率以上を使用していることを追跡(トレース)できること(アビリティ)を確認するテキスタイル認証があります。こちらを主流に考えて開発されたのが「オーガニック・テキスタイル世界基準」(以下 GOTS)になります。LINが所属するJOCA(日本オーガニックコットン協会)では、既にそれまでの独自基準(JOCA認証)からGOTS認証へと変更が行われています。「GOTSは代表的な国際基準策定機関によって、 原料の収穫から環境に優しく社会的に責任のある製造を経て、消費者に信頼できる保証を与える ラベリングに到るまで、「繊維製品が正しくオーガニックである」という状況を確保する世界的なルールを定めるために開発されました。」(NPO法人 日本オーガニック・コットン協会より)

オーガニックコットンの認証基準について

いま世の中でショップに並んでいる衣類(例えばコットン製品)には綺麗なカラーで染め上げたものが数多く出ています。それらは当然のように一定の色合いに染まっており、そのことで特に違和感を覚える方は少ないと思いますが、しかしその工程を遡っていくと、天然繊維であるコットンの脂分を溶かして流すために強いアルカリ性の苛性ソーダで脱脂を行い、過酸化水素などの漂白剤で脱色をしてその上で綺麗なカラーに染め上げていった結果なのです。オーガニックコットンが軽くて柔らかいのは余分な染料が付いていないのと天然の油分による滑らかさが一役かっているからといえるでしょう。

近江と綿

今回はちょっと本業のオーガニックコットンに関わりのある内容を調べてみます。、近江(現在の滋賀県)と綿の関わり合いについてです。
日本と木綿の関わり合いは、「日本後紀」によると延歴18年(799年)に三河(愛知県)に漂着した崑崙人によって持たらされたのが最初とされます。当初、初期の鉄砲である火縄銃の火縄に使用されていたそうで、次第に上流階級の衣類に使われるようになったようです。その後日本でも綿の栽培を試みるのですがうまくいかず、中国や朝鮮半島から綿布の織りあがったものを輸入していました。やがて17世紀ごろから薩摩(鹿児島)、三河(愛知)、紀伊(和歌山)などの温暖な地域で栽培が出来るようになったのですが、当時の米の値段に比べて10倍もするような庶民には手の届かない高価な贅沢品として扱われていました。そうなると何時の世も同じです。農民はそれまでの稲作から綿花の栽培の方が儲かるぞ!と転作を行う動きが活発になり、幕府ではこのままいくと稲作が疎かになってしまうぞ!と危機感を恐れた結果、綿花の栽培を規制したそうです。
日本ではそれまで人々は麻の着物を着ていたのですが木綿の着物を着てみて、あまりの心地よさとふんわり暖かい肌ざわりにさぞかし驚きと喜びを感じたことでしょう。ちなみに当時の木綿は高価な贅沢品で庶民には縁遠く手が届かないために、麻の布地に柄として木綿を縫い込みささやかに楽しんでいたそうで、これが後の刺し子の始まりたと言われています。
日本で栽培された綿花は「和綿」と呼ばれ、江戸時代には近江(滋賀県)、伊勢、三河などが綿を使った糸や布の生産が盛んにおこなわれていました。そして、後の明治維新後に富岡製糸場(群馬県富岡市)から帰郷した彼女らの技術を生かし、彦根の地に県営製糸場が設立されることになりました。で、普通に考えてみて、この当時の綿の栽培って農薬なんて無かったと思うんですよね。全て有機栽培で、もちろん除草剤や防虫剤なども無く、、、これって!まさしくオーガニックコットンなのではないでしょうか!!!オーガニックコットンとは3年間無農薬で栽培された農地で作られた綿花を・・・(詳しくはコチラ)
昔の人々は綿の着物を着て、さぞかし心地よい日々を過ごしていたのでしょうね。